環境リスク論は「不安の海の羅針盤」か?
2007-01-25


時間とお金を大量にかければ科学は自然界の全てを明らかにしてくれる、あるいは、未知領域がやがてはすべて既知になるという楽観主義はとうの昔に破綻している。未知領域の多くは不可知領域と事実上等しいのである。この「不安の海」に人類を連れ込んだのは、国家権力であり、企業であり、科学技術者という名の専門家である。
 環境リスク学が「不安の海」の羅針盤だというのなら、知らぬ間に連れ込まれた市民、住民を守る道具として機能し、住民自身が自らの生命と子々孫々の生命とを守るために主体的に使いこなせるものでなければならないだろう。しかし、事実はそれとは裏腹に専門家以外が使いこなすことは難しく、国家が政策を国民に押し付けたり、企業が現状を肯定するために使われる巧妙な道具として機能してきたことが欧米の市民運動サイドから指摘されている7~8)。市村は9)具体的に、リスクベネフィット分析にあたって比較考量されるdB/dR=リスク削減費用/リスクの大きさ(=一人の生命を救うための費用)について、dBは専門家や企業にしか算定できないし、ある意味では企業側の言いたい放題の算定が可能な項であり、dRも専門家にしか算定できないし、リスク評価そのものが不確実性に満ちていると指摘している。

3. ゼロリスク神話をふりまいたのはだれか?
 「砂糖でも塩でもたくさん食べれば毒性がある」とか「絶対に切れない堤防はない」とか、すなわち絶対安全などというものはないのだという台詞に頻繁に遭遇するようになった。自己責任という言葉がついてくることも多い。遺伝子組み換え植物、食品の安全性を強調する農林水産省の市民向けに編集された分厚いリーフレットには、「いかなる食品にもリスクはある」「組み換え食品のメリットも考慮しよう」、まさにリスクアンドベネフィットの理屈が国民に組み換え食品を押しつけていく論理に使われている。
 秀作ドキュメンタリー映画「六ヶ所村ラプソディー」(監督:鎌仲みゆき)の中で、原発推進派の原子力委員である斑目東大教授は「再処理工場という危なっかしい装置を安全に運転するなんてことはとても難しい」旨の発言をしている。「最後はお金ですよ。金額は地元住民が納得するところで決まるでしょう」とも発言している。
 しかし、絶対安全神話をふりまいてきたのは国家であり企業だったのではないだろうか。その当事者が、突然手のひらを返すように「絶対安全」はありえない、だからリスクコントロールしながらいくしかないのだとお説教を始めているというのが現在の状況である。そのための絶好の理論あるいは理屈を提供しているのが環境リスク論なのである。環境リスク学研究者は、この事態を正視した上で仕事をするべきである。

4. リスクベネフィット分析の適用ルール
中西は「水の環境戦略」1)「リスク論」2)の中でリスクベネフィット分析手法を適用するにあたってクリアされなければならない4つの原則について丁寧に述べている。すなわち、イ)リスク受忍者とベネフィット受益者の一致 ロ)リスク受忍者に選択権がある ハ)ベネフィットの分配の公平性 ニ)リスク算定の正確さ である。このうちのどれが欠けてもリスクベネフィット法の適用は出来ないとしている。
一方、同じ著者が「リスク学」3)では、BSE牛輸入を防ぐための全頭検査の是非をめぐって日本政府及び日本国民の「非科学性」を指摘している。100年間の全頭検査に要する費用2000億円に対して、それで救われる生命は1人にすぎないから馬鹿げた対策だというのである(計算過程への疑問は後で述べる)。しかし、この計算結果から導かれる政策を国民全部に押し付けるとすると、「ロ)リスク受忍者には選択権がある」に違反することになる。 
この例のように、「リスク論」から「リスク学」へ移行する約10年間における中西氏の変化は顕著なものがある。

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